楽浪の滋賀(街道をゆく1 朝日文庫)


楽浪郡(らくおうぐん)は、漢朝によって設置され、紀元前108年から西暦313年まで存在した朝鮮半島の郡。東方における中華文明の出先機関であり、朝鮮や日本の中華文明受容に大きな役割を果たした。(Wikipediaより)


司馬遼太郎は、琵琶湖が大半を占める滋賀県が大好きで

「近江」という口ずさむだけで喜べるらしい

京都や奈良にある古来の建物がどんどん現代風になっていく様に比べ

近江の国はふるさとのにおいを残してると評している

彼が亡くなってから30年近く経つ

今もなお残そうとしているように思える

近江の国

国のまんなかは満々たる琵琶湖の水である」(街道ゆく1 司馬遼太郎 朝日文庫) 

どうやったらこんな表現できるんや・・・読み進めるたびに圧倒される

琵琶湖はかつて淡海(あわうみ)とよばれこれが縮こまって近江の国と言われるようになったらしい

「大和人の距離感を心像の中に押し込んで、湖西の道を歩いてみたい」(街道ゆく1 司馬遼太郎 朝日文庫)

大和人というのは、縄文時代から日本で生活する人

そのマインドで湖西を歩きたいということ

ほんまにこんな文章どうやっておもいつくんやろなw

「湖の水映えが山すその緑にきらきらと藍色の釉薬をかけたようで、いかにも豊かであり、古代人が大集落をつくる典型的な適地という感じがする。」(街道ゆく1 司馬遼太郎 朝日文庫)

藍色の釉薬ってたとえが秀逸すぎるな

淡い青色で陶器にとかでよくみかける色味

確かに、晴れた日の琵琶湖の水はそんな風にみえなくもない

ただこれは、あまり人が遊泳してないような場所に限る

そんなスポットの一つ琵琶湖の南に位置する場所こそが「楽浪の志賀」

サザナミという楽浪という当て字

朝鮮半島の楽浪との関係性を探る

共通点の一つは、楽浪の志賀にある古墳群はすべてが朝鮮式

どうやら半島からの渡来人がこの辺りにやってきて生活していたと考えられる

叡山の始祖である最澄がこのあたりの出身でもあるらしい

中国へと派遣されたのもこのルーツが大きかったのかもしれないと他の章で書かれていた

どうやら湖南は古墳だからけのようで宅地開発がなかなかできない状況らしい


現在の草津市あたりがそうなるのかもしれない

確かにGooglemapでみてみると4分の1ぐらいは田畑

しかし、人口は14万人もいる大都市だった

京都府において京都市以外で宇治市が唯一の人口10万人越え

これは予想外の結果だった


近江の湖賊

中世というと平安~戦国時代の500年を指す

その時代に近江の湖賊というなの水軍が琵琶湖を仕切っていた

堅田がその本拠地

織田信長はこの水軍を従わせて秀吉が朝鮮出兵に船舶兵として徴用した

海と湖とは勝手が違う気がするけど

これもまた敗因の原因だったのかもしれない

その水軍大将の末裔は琵琶湖で漁をして生計をたててたらしい

初見で琵琶湖を見た人はつい海だと勘違いするほど広く

この漁師は船で寝泊まりできるようにして1ヶ月間ぐらいは水上生活していたらしい

魚と米や野菜とブツブツ交換してたらしい

現在は、湖賊ではなく湖族の郷資料館がそこには残っている

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